むやミ日記

Muyami Net Watching Diary

これは、フジの花です。ちょうど、いまがいちばんきれいなときですね。

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「土佐日記」の「海賊」 

 

お話、ころんとかわって、「土佐日記」の「海賊」について、手がかりがみつかりました。

http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/088.pdf

かなり長いファイルなので以下部分抜粋します。

 

撫養港〔西田 素康〕
第1章 撫養港の整備と利用の沿革
撫養港の歴史はおよそ 1300 年前にさかのぼる。

1.古代
(1)〝なると〟のあけぼの
 日本各地に首長居が出現したのは 1 世紀から 3 世紀である。3 世紀から 4 世紀にかけて古墳が築造されはじめた。特に前期の前方後円墳は統一的に祭儀礼を示し、副葬されている鏡は、大和政権に帰属し、朝貢して賜与されたものとかんがえられる。
 鳴門市内の中央を走る阿讃の山脈の麓にある池谷の天あまの河かわ別わけ三号墳や、宝幢寺ほうどうじ古墳は、鳴門市内に弥生時代以来台頭していた首長層のもので県指定となっている。
【鳴門市史上巻】
 阿波の国には大小合わせて 2,000~3,000 の古墳があるといわれ、そのうち 200~300
は鳴門市内に占めるともいわれている。

 

「土佐泊」ってどこ?

 

 撫養港は、このまえ掲載した「手書き(写し)地図」の「土佐泊」(とさどまり)と表示してあるあたりです。鳴門の渦潮の四国がわの赤ポッチのところ。

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 それでどーしたかというと、、、

(4)撫養の語源
1.舟をつなぐことを「むやう」、「もやう」という。その転訛とする説。
2.南海道の水駅として設けられた室屋の転化。
3.しおけむりのため、〝もやもや〟としているところ
4.〝む〟は湿地。沼地を。「や」は谷。
 出典:岩村武勇編「鳴門」(昭和 37 年)

2.中世

(1)中世社会における撫養港

荘園の発展とともに荘園交通は盛んとなり、年貢や地方物産の増加は莫大な量に上った。その送達のための交通路として駅伝制が整備され、輸送機関として人垣や駄馬が主として使用されたが、運送量はわずかなものであった。そのため、船運が盛んに利用された。平安時代以来土佐の船が都へ上るためにも使用されたことは、紀貴之の「土佐日記」が如実に物語っているし、撫養の「土佐泊」は、土佐への航路をとる船が一時、停泊したことをしのばせる。

 その他、「平家物語」や「源平盛衰記」にも鳴門の海の記録がしばしば出てくる。

(2)紀貫之の「土佐日記」

 平安時代以来、土佐の舟が都へ上るために阿波の東海岸が使われた。土佐泊は、紀貫之の「土佐日記」中に書かれた港で、当時鳴門海峡には海賊が出没する故この港で停泊し、航路の安全化をはかったようである。紀貫之の土佐国在任は、延長 8 年(930)正月 29 日から承平 4 年(934)4 月で、同年12 月 21 日に土佐の国府を出たもようである。

 全体が女性の見聞であるかの如く設定されている。

 

  どうやら、この「海賊」関係の記事は、あたしの「ネーム」や、ここの「ブログタイトル」と、何か、アヤシい関係にあるよーなかんじなのです。。

 ※色付きマーカーや、アンダーラインの引き方がわかってれば「ここ」と「ここいらね」と強調できて、かっこいよい、のですが、すみません。まだ習得できてません。

 

【つづきます】