祝第100回記事的石牟婁亭日常(さかだち変態しゅうりょう記念)

明け方に、ぐらぐら揺れがきて目がさめた


 古iPhone5の「なまず」のアプリたたきおこし「茨城県沖、震度4と3」の連続があったのねぼけながらかくにん。
 よろよろ空気窓を開けにいき換気扇まわし、また寝床にもどってウトウトしてると、上のほうからホウキで葉っぱをはく音がしてくる(ああ大家さんおきた、、、と)またウト、、、こんどは空気窓真上ベランダでシャワーっと植木に水をやってる音がしてくる。ああ、たしかきのうは、海の日の月曜日で、燃えるGo Meの日でGoMe袋2コだしたあとに、「外カラカラに乾いてるから水やりタノムね」が、まえの晩にあって、あたしがシャワーやったんだっけ、とおもいだした。

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 上の画像とありそうな関連ふたつ(こわいやつ)

 逆立ち幽霊

tws031.ti-da.net

逆立ちリス(GIFファイル)

gifmagazine.net

きのうの大家さんの引用箇所と関連ありそな長めの引用

 狂言の特色は民衆的または写実的な点にある。古文学に依頼せずまた束縛せられずして、民衆の言語を以て自由に民衆の生活を直写した点にある(いくらかの例外はあるが)。だから狂言は我が国の平民文学の魁といはねばならぬ。(津田左右吉・『文学に現はれたる国民思想の研究』)
 狂言とはまずもって、あの「郷村」に生きた人びとの生身の肉体とことばをその真実において、すなわち当時における人間史の成果であり確証物であるところのそれをまさしくそういう人体として舞台のうえにつくりだし、観客の五官の対象にするものだとしなくてはならず、それを観客に対象化することによってかれらに郷村の人間の世界に生きるよろこびと面白さを確認させ、その生の発展をはかる演劇だというふうに考えねばならない。(谷宏・『中世文学の達成』)
 これらの考えは、どれも主題におもきをおき、日常語か文学語かにとらわれ、言語としての劇が成立した時期の能と狂言を、あまりに現在の能・狂言の社会的ありかたにひきよせたために謬見をしめしている。
 おなじことを言いたければ、狂言は写実的であるよりも説話的フォルムをたもっている。大衆的であるよりも土俗的であることによって、能よりもずっといわゆる脇能(儀式能)に直結する経路をもち、そういうさかだちした契機をもんだいにすれば、支配者の儀式(舞詞曲)にちかいものなのだ。折口学は柳田国男の影響をもふくめて、この直通の経路に、劇としてのおもな流れがあることをみとめた。こういった考えは、大衆を主題にし、やさしい言葉でかけば被支配者大衆の立場にあるかのように錯覚する、現今の芸術大衆化論とすこしもかわらない。このことによって芸術はたださかだちした支配層を反映するにすぎないのだ。 いつの時代でも、あるがままの大衆の感性は支配層に直通するものだ。この土俗のなかにたもたれている大衆の祭式の契機が、支配層の儀式のなかにあることをみとめたのは、折口学、柳田学の学的な起源になっている。あるがままの大衆の様式はさかだちすれば、すぐに支配者の様式に転化してゆく。(中略)  いつの時代でも、支配層は知識人の高度な表出よりも、土俗的なあるいは説話的な要素をもった表出を、支配的儀式に直通する可能性があるものとして愛好する。そういうことをこれらの著者たちはほとんどかんがえてはいない。

 

 吉本隆明
『定本・言語にとって美とはなにかⅡ』
(162頁~164頁) 

 

そして、おまたせしました!


むやミ=アイキャッチャー=を、もういちど、

さかだち

させてみますね。

 

 

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ほら、両足でふつうに立って眠ってるみたいに、みえませんか?

 


【つづきます】